「怒りは人間関係を破壊する」教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、1月31日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。
この日、謁見中の「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、教皇は「怒り(憤怒)」をテーマに講話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「悪徳と徳」をめぐるこのカテケーシスで、今日は「怒り(憤怒)」という悪徳について考えよう。
「怒り」は、特別に闇に満ちた悪徳であり、おそらく外見的にも最も見分けやすいものである。怒りに支配された人は、その衝動を隠すことができない。体の動きや攻撃性、荒い息づかい、険しい不機嫌な目つきでそれがわかる。
怒りが最も激しい時、それはとどまることを知らない。怒りが自分が受けた(あるいは、受けたと信じている)不正義から生まれている場合、それはその怒りの原因となった人にではなく、たまたま会っただけの人に降りかかる。
職場で怒りを抑えている人がいる。職場では落ち着いて控えめに見せていても、帰宅後は、妻や子たちにとって、耐え難い存在となる。怒りはあふれやすい悪徳である。睡眠を邪魔し、頭をめぐらし続け、考えを止めることができない。
怒りは人間関係を破壊する悪徳である。それは特に彼の人生の選択がわれわれのものと違う時、他者の違いを受け入れることができず、怒りとなって表される。誰かの間違った態度を前に自分を制することができず、何もかも怒りの中に投げ込んでしまう。そして他者のありもままの姿さえ、怒りと恨みを生むようになる。
人間関係がこのレベルに悪化すると、もはや理性は失われている。なぜなら怒りの特徴の一つは、しばしば、時間とと共に和らぐということがないからである。この場合、距離も沈黙もこの誤解の重荷を解くことができず、むしろそれを増大させる。
それゆえ、使徒聖パウロは、すぐに問題と向き合い、和解を試みるように、信徒たちに勧めている。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ4,26)。すべて時を置かず、日暮れ前に解決することが大切である。日中に何か誤解が生じて、互いに理解を失っても、夜になって悪魔にそれを委ねてはならない。怒りの悪徳は、闇の中で目を覚まし続け、自分の理屈を反芻させ、とんでもない自分の過ちを他人に転嫁する。
イエスは「主の祈り」の中で、わたしたちの危うい人間関係のために祈らせている。わたしたちは皆、罪びとであり、皆が借りを持っていて、その収支は赤字である。それゆえ、わたしたちは皆、赦されるために、赦すことを学ばなければならない。
憤怒の対極にあるものは、寛容である。それは心の広さ、温和さ、忍耐強さである。
怒りは戦争と暴力の根源と言われた、恐ろしい悪徳である。古代の人たちは、わたしたちの中には否定できない、否定してはならない怒りやすい部分があることをよく認識していた。わたしたちには、怒りの発生において責任はないが、その展開には常に責任を負っている。
時には、ある状況において怒ることが相応な場合もある。ある人が不正や、弱い者いじめを前に、決して怒りや憤懣を感じないとしたら、その人は人間的でも、キリスト教的でもないだろう。
怒りではなく、聖なる憤懣と言われるものがある。イエスはしばしばそれを感じられた(参照 マルコ3,5)。イエスは決して悪に悪をもって答えられることはなかったが、イエスの心はこの感情を体験された。イエスは、神殿から商人を追い出したエピソードで、強烈で預言的な行動をとられたが、それは怒りではなく、主の家を思う熱意から来るものであった(参照 マタイ21,12-13)。
聖霊の助けをもって、わたしたちがふさわしい情熱を見出し、それをよく鍛錬し、悪ではなく善に向けることができますように。