「復活されたイエスとの出会いによって命を受ける」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、4月7日(日)、レジーナ・チェリの祈りを巡礼者と共に唱えられた。
復活節第二主日(神のいつくしみの主日)、教皇は祈りの前の説教で、この日の福音朗読箇所、戸に鍵をかけ家に閉じこもっていた弟子たちにイエスが現れたエピソードと、イエスが使徒トマスにご自分の傷に触れるように招くエピソードの二つが語られる、ヨハネ福音書20章19-31節を取り上げた。
教皇は特にこの箇所の最後に記された、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20,31)という一節に注目。「命を受ける」ためにどうすべきかを説かれた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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聖ヨハネ・パウロ2世によって「神のいつくしみの主日」と名付けられた、復活節第二主日、福音(ヨハネ20,19-31)は、わたしたちは神の子イエスを信じることで、イエスの名により永遠の命を受けることができると教えている。「命を受ける」とはどういう意味だろうか。
誰もが命を受けたいと思っている。たとえば、人生を、食べ、飲み、楽しみ、お金や物を貯め、強く新しい感動を求めるなど、多くを楽しみ、所有するために、せわしなく走りまわることに矮小する人がいる。それは最初は心地よいものに見えるが、それが心を満たすことはない。これは「命を受ける」ことにつながらない。享楽と権力の道をたどっても幸福は見つからない。事実、愛や、避けがたい悲しみや、死という限界などの人生の多くの側面に対する答えは見つからないままだ。それに、永遠の命、永遠の愛といった、皆が持つ夢も叶えられないままである。今日の福音は、わたしたち一人ひとりが召されている命の充満は、イエスにおいて実現されると記している。ならば、どのようにしてそこに到達し、それを経験することができるのだろうか。
福音書の中で弟子たちに起きたことを見てみよう。イエスの弟子たちは、人生の中で最も悲劇的な時を過ごしていた。彼らは驚きと失望のため、高間に鍵をかけて閉じこもった。復活された主は、彼らと出会い、最初に傷を見せられた(参照 ヨハネ20,20)。それは、イエスの苦しみと痛みのしるしであり、罪の意識を生みかねないものであったが、イエスによってそれはいつくしみと赦しへと導く通路となった。弟子たちはその傷を見て触れ、イエスと共に命は勝利し、死と罪は敗北した。彼らは喜びと愛と希望で練り上げられた新しい命を与える聖霊を受け取った。
では、どうしたら毎日「命を受ける」ことができるだろうか。それは十字架上で死に、復活したイエスを見つめるだけで十分である。秘跡と祈りの中でイエスと出会い、その現存を認め、イエスを信じ、その恵みに触れられ、模範に導かれ、イエスのように愛する喜びを経験することによってである。イエスとの生きた出会いを持つたびに、わたしたちはより多くの命を得るのである。イエスはわたしたちを探しておられる。イエスとの出会いに心を開こう。
だが、ここで自問しよう。わたしはイエスの復活の力を信じているだろうか。イエスの復活、イエスの罪と恐れと死に対する勝利を信じているだろうか。イエスとの絆を育て続けているだろうか。兄弟姉妹を愛し、毎日希望を持つようにイエスから励まされているだろうか。
命を受け、復活の喜びを広めるために、復活されたイエスにおいてより大きな信仰を抱くことができるよう、聖母が助けてくださいますように。