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教皇フランシスコ 2024年5月1日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2024年5月1日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「信仰の敵とは、知性や理性ではなく、恐れ」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、5月1日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、5月1日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。

 この日、教皇は「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、「対神徳」の中の「信仰」の徳について考察された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

********** 

 今日は、「信仰」の徳について話そう。「信仰」は、「愛」と「希望」と共に「対神徳」と呼ばれている。なぜならば、神の賜物があってこそ、それを生きることができるからである。この三つの対神徳は、わたしたちの倫理的な力に対して神が与えられる偉大な恵みである。この恵みがなくても、わたしたちは、賢明で、正義にあふれ、勇気を持ち、節制を実践できるかもしれないが、闇の中でも見える眼差し、愛されない時でも愛せる心、希望するすべもない時の希望を持つことはできない。

 信仰とは何だろうか。『カトリック教会のカテキズム』は、信仰とは「自由に自分自身を全く神にゆだねる」ことであると説明している(n.1814)。この信仰において、アブラハムは偉大なる父である。アブラム(後のアブラハム)が先祖の土地を離れて、神が示される地に向かった時、それは人々からは途方もない行為と思われただろう。なぜ未知のために周知のものを、不確実のために確実なものを捨てるのか。しかし、アブラムはまるで見えないものを見るかのごとく出発したのである。そして、この見えないものは、さらに、彼を約束された子イサクと共に山に登らせた。そしてイサクは捧げ物とされる最後の瞬間にそれを免れた。この信仰において、アブラハムは多くの子孫たちの父祖となったのである。

 モーセは、神の声を受け入れながら、信仰の人となった。彼はいくつもの疑問に揺るがされそうな時も、主に留まり信頼し、しばしば信仰に欠ける民を守ることまでした。

 信仰の女性、それはおとめマリアであろう。マリアは天使からお告げを受けた時、多くの人ならばこの重すぎる危険な使命を拒否しただろうが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1,38)と答えた。マリアは神への信頼に満たされた心で、その道筋も危険も未知な歩みを始めたのである。

 信仰は、キリスト者を作る徳である。なぜならば、キリスト者であるとは、ある文化を受け入れることではなく、ある絆を受け入れ、守ることだからである。その絆とは、わたしと神との絆、自分という人間とイエスの優しい御顔との絆である。

 信仰をめぐり、福音書のあるエピソードが思い浮かぶ。イエスの弟子たちは舟で湖に漕ぎ出していたが、激しい突風に襲われた。(参照 マルコ4,35-41)。弟子たちは自分たちの腕と経験でそれを乗り切ろうとしたが、舟は水浸しになり、彼らは恐怖に襲われた。弟子たちはその解決法が目の前にあることに気づかなかった。イエスは彼らと一緒に舟上におられ、嵐の中で眠っておられた。弟子たちがイエスを起こし、自分たちがおぼれてもかまわないのかと、恐れ、また立腹しつつイエスに言うと、イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4,40)と彼らを叱られた。

 信仰の大きな敵とは、ある人々が思い込んで繰り返すように、知性や理性ではない。信仰の敵、それは端的に言って恐れである。それゆえに、「信仰」はキリスト者にとって最初に受け入れるべき恵みである。それは、わたしたちの中で新たにされるように、毎日受け入れ、願うべきものである。

 自分に与えられた恵みの重要性を自覚するキリスト教徒の親にとって、自分の子にも願う恵み、それは「信仰」である。キリスト教信者の親は、「信仰」があれば、人生の試練にあっても、自分の子は恐れの中で溺れることはないと知っている。そして、自分がいなくなっても、子には天の御父がついていてくださり、決して彼を見捨てないことも知っている。われわれの愛はかくもはかなく、神の愛だけが死に打ち勝つことができる。

 もっとも、使徒聖パウロが言うように、すべての人に「信仰」があるわけではない(参照 2テサロニケ3,2)。わたしたち信者も、しばしば自分の信仰の足りなさに気づかされる。イエスは、弟子たちにそうされたように、「信仰の薄い者たち」とわたしたちをお叱りになるかもしれない。しかし「信仰」は、最も幸いで、唯一羨望することが許される徳である。なぜならば、信仰を持つ人には、人間の力だけではない、ある力が宿っているからである。実際、信仰は、わたしたちの中に恵みを植え付け、精神を神の神秘に開かせる。

 イエスはある時こう言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17,6)。だから、わたしたちも弟子たちのように繰り返そう。「わたしどもの信仰を増してください」(参照ルカ17,5)と。さあ、この美しい祈りを一緒に繰り返そう。「主よ、わたしどもの信仰を増してください!」

 

 

01 5月 2024, 14:29

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