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教皇フランシスコ 2024年5月8日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2024年5月8日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「世界はキリスト教的な希望を必要としている」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、5月8日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、5月8日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中の「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、この日、教皇は「対神徳」の考察として、「希望」の徳を取り上げられた。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

********** 

 今日は、「希望」の徳について考察しよう。『カトリック教会のカテキズム』では、「希望」の徳について、このように定義している。「希望は対神徳です。この希望の徳によってわたしたちは、キリストの約束に信頼し、自分たちの力ではなく聖霊の恵みの助けに寄り頼みながら、わたしたちに幸せをもたらしてくれる天の国と永遠のいのちとを待ち望みます」(n.1817)。この定義は、「希望」とは、「わたしはどうなるのだろう。この旅の終着点はどこなのか。世界の運命はどうなるのか」という究極の問いが生まれた時に、わたしたちの心に与えられる答えであることを教えている。

 これらの問いに対する否定的な答えが悲しみをもたらすことは、皆が知っている。人生の旅に意味がないならば、最初から最後までが虚無だとしたら、わたしたちはなぜ歩む必要があるのかと問うだろう。ここから人の絶望と、すべては無駄だという感覚が生まれる。そして多くの人がこう不満をもらすだろう。「わたしは、賢明、正義、勇気、節制の徳を身につける努力をした。わたしは信仰の人にもなった…。この苦労はいったい何の役に立ったのか」と。もし希望がないのならば、他のすべての徳は粉々になり、灰と化すだろう。もし、明日への信頼や、輝く水平線がないとしたら、徳の実践が無用な努力と結論づけられても無理はない。「未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になる」(ベネディクト16世、回勅『希望による救い』2)とベネディクト16世は述べている。

 キリスト者が希望を持っているのは自分の功績ではない。もし未来を信じるとすれば、それはキリストは死に、復活されたからであり、キリストがわたしたちに聖霊を与えてくださったからである。「わたしたちにあがないが与えられるというのは、わたしたちに希望、すなわち信頼することのできる希望が与えられているということである。この希望の力によって、わたしたちは現在に立ち向かうことができる」(回勅『希望による救い』1)。この意味で、「希望」とは対神徳である、と改めて言えよう。それはわたしたちから生じるものでも、執着的な自己暗示でもない。それは神から直接いただく贈り物である。

 希望によって完全に生まれ変わらない多くの疑い深いキリスト者たちに対し、使徒聖パウロはキリスト教的体験の新しい論理を示している。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(1コリント15,17-19)。あなたがキリストの復活を信じるならば、永遠にいかなる敗北も死もないことを確信していることになる。しかし、あなたがキリストの復活を信じないならば、使徒たちの説教に至るまで、すべてがむなしいものになる、とパウロは言っているのである。

 自分の辛い思い出や、憂鬱の中で、幸福な過去は永遠に葬り去られたと考える時、わたしたちは「希望」の徳に対して過ちを犯しがちである。神はいつくしみ深く、わたしたちの心よりも偉大な方であることを忘れて、自分の罪に打ちのめされている時、わたしたちは「希望」に背いてしまう。

 「希望」というこのキリスト教的な徳を、今日世界は大いに必要としている。それは、世界が「忍耐」の徳を大いに必要としているのと同様である。「忍耐」は、「希望」と密接につながりながら歩む徳である。忍耐ある人は、善を紡ぎ出す人である。平和を粘り強く望み、たとえ他の人々が性急にすべてを要求しても、忍耐は待つことを知っている。自分の周りで多くの人が失望に陥っても、希望に励まされた忍耐強い人は、最も暗い夜の闇も渡り切ることができる。

 「希望」は、若い心を持った人の徳である。そこには年齢は関係ない。お年寄りであっても輝いた眼差しで、未来に向けてつねに張りをもって生きる人がいる。福音書の中の偉大な二人の老人、シメオンとアンナを思い出そう。彼らは疲れることなく待ち続け、両親に連れられ神殿を訪れたイエスの中にメシアを認めることで、この世の歩みの終りに祝福を受けることになった。

 わたしたち皆にとっても、彼らのようであるならば、何という恵みだろうか。長いさすらいの後で、荷袋と杖を置いて、経験したことのない喜びに心満たされ、わたしたちもこのように叫ぶことができるならば。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2,29-32)。

 この「希望」という偉大な徳と、それに伴うべき「忍耐」の徳を主に願いながら、前に進んで行こう。

08 5月 2024, 13:37

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