「ささげ、感謝し、分かち合う態度」教皇、日曜正午の祈りで
教皇フランシスコは、7月28日(日)、バチカンで正午の祈りを信者らと共に唱えられた。
年間第17主日、教皇は祈りの前に、この日の福音朗読、ヨハネ福音書6章のイエスによるパンと魚の奇跡(ヨハネ6,1-15)を取り上げ、説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音は、パンと魚の奇跡(参照 ヨハネ6,1-15)について語っている。この奇跡・しるしの中で、登場人物たちは、イエスが最後の晩餐で繰り返すことになる三つのジャスチャーを完成させている。この三つの態度とは、「ささげる」「感謝する」「分かち合う」ことである。
まずは「ささげる」という態度である。福音書はパン五つと魚二匹を持った一人の少年について述べている(参照 ヨハネ6,9)。「ささげる」という態度は、わたしたちは与えられる何か良いものを持っていること、そして、たとえそれが必要とされているものに対してあまりに少なくても、「はい」と答えることを教えてくれる。ミサの中で、司祭が祭壇でパンとぶどう酒をささげる時に、それぞれの人は自分自身と自らの生活をささげるということは、強調されるべきである。人類が必要としている物事の膨大さを考える時、その行為は、まさに何千人もの群衆を前にした時のパン五つと魚二匹のように小さなことに思われる。しかし、神はこのささげるということにおいて、神ご自身が世の救いのためにわたしたちの間に来られるという、最大の奇跡を行われるのである。
こうして「感謝する」という二番目の態度を理解することができる(参照 ヨハネ6,11)。それは主に謙遜と喜びをもってこう言うことである。「わたしが持っているすべてのものは、主よ、あなたの恵みです。そしてあなたに感謝するためにできることは、あなたから最初にいただいたものを、あなたの御子イエス・キリストと一緒に、できる限りのものを加えながら、あなたにお返しすることだけです」。わたしたちから主にお返しできる小さなものとは何だろうか。それはわたしたちの「貧しい愛」だけである。「主よ、お愛しします」と言うこと。惨めなわたしたちの愛はこれほどにも小さなものである。しかし、わたしたちはこれを差し出し、主はこれを受け取られる。
「ささげる」「感謝する」、そして、三番目の態度は「分かち合う」ことである。ミサにおいて、聖体拝領でわたしたちはキリストの御からだと御血を受け取るために共に祭壇に近づく。そこでは、皆のささげ物が、実りとして、主を通して皆のための糧に変容する。聖体拝領は大変美しい瞬間である。それは、与える者にとっても、受け取る者にとっても、あらゆる愛の態度を恵みの賜物として体験することを教えてくれる。
自問しよう。わたしは、神の恵みのおかげで、兄弟たちにささげられる何か唯一のものを持っていると本当に信じているだろうか。それとも没個性のうちに「大勢の中の一人」と感じているだろうか。わたしは、自分にご自身の愛を表し続ける神の恵みのために、主に感謝しているだろうか。出会いと互いを豊かにする機会として、他者との分かち合いを生きているだろうか。
おとめマリアよ、わたしたちがすべてのミサに信仰をもって与り、毎日神の恵みの「奇跡」を味わうことができるようお助けください。