「立ち止まり、憐れみ深い眼差しを持つ」教皇、日曜正午の祈りで
教皇フランシスコは、7月21日(日)、バチカンでお告げの祈りの集いを行われた。
年間第16主日、教皇は祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読、マルコ福音書中の、イエスが、宣教から戻った弟子たちに、人里離れた所へ行ってしばらく休むようにと命ずる一方で、ご自分のもとにやって来る群衆の、飼い主のいない羊のようなその有様を深く憐れむ場面(マルコ6,30-34)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音(マルコ6,30-34)は、宣教から戻った使徒たちがイエスのもとに集い、自分たちが行ったことを報告する様子を語っている。
そこでイエスは、「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。ところが、人々は彼らの動きに気づいてしまった。彼らが舟から上がった時、イエスは大勢の群衆を目にした。イエスは、飼い主のいない羊のようなその有様を憐れみ、彼らに教え始められた(参照 同6,34)。
ここには、休息を取ることへの招きがある一方で、イエスの群衆に対する憐れみがある。休息と憐れみ、これらは二つの相入れない事柄のようだが、実は互いに関係するものである。これについて考えてみよう。
イエスは弟子たちの疲れを心配される。おそらくわたしたちの生活や使徒職にありがちな危険を感じておられるのかもしれない。たとえば、宣教や仕事を進める上での熱心、また託された役割や課題が、わたしたちを活動主義の犠牲者にしてしまうことがある。やるべきことやその結果で、頭をいっぱいにしてしまうのである。すると、わたしたちは心を乱し、本質を見失い、エネルギーを消耗させ、心身の疲労に陥ることになる。これは多忙に囚われがちなわたしたちの生活や社会、また教会や司牧奉仕に対する警告である。わたしたちは「すべきことの独裁」に注意しなければならない。
同時に、イエスが勧める休息はこの世からの逃避や、自分の心地よい世界に引きこもることではない。むしろその反対に、イエスは迷える群衆を前に憐れみを覚えるのである。こうして、わたしたちは福音から、休息と憐れみという二つの現実は結びついている、ということを知る。すなわち、休息することを学ぶならば、わたしたちは憐れみを持つことができるのである。
実際、自分の心が、何かをしなければならないという不安にすり切れていないならば、また、立ち止まることを知り、沈黙の礼拝のうちに神の恵みを受け取ることができるならば、わたしたちは憐れみ深い眼差しを持ち、他者の必要をくみ取ることができるのである。
では、ここで自問しよう。わたしは一日の中で立ち止まることができるだろうか。自分自身と、また主と共にいる時間を持つことができるだろうか。それとも常に何かすべきことに追われているだろうか。毎日の喧騒や活動の中で、内的な「砂漠」をわずかでも見つけることができるだろうか。
聖なるおとめマリアよ、わたしたちが日常的なあらゆる活動の中でも「聖霊のうちに休む」ことを知り、他者に対して快く応じ、憐れみを持つことができるようにお助けください。