検索

教皇フランシスコ 2024年11月10日のお告げの祈り 教皇フランシスコ 2024年11月10日のお告げの祈り  (ANSA)

教皇「人々を立ち上がらせ、希望を与えるために力を用いる」

教皇フランシスコは、11月10日(日)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

 教皇フランシスコは、11月10日(日)、バチカンでお告げの祈りの集いを行われた。

 年間第32主日、教皇はこの日の福音朗読箇所、マルコ福音書12章中の、イエスが律法学者たちを非難される場面(マルコ12,38-44)を取り上げ、説教を行われた。  

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

**********

 今日の典礼の福音(マルコ12,38-44)では、イエスがエルサレムの神殿において、ある種の律法学者たちの偽善的態度を人々の前で非難される場面が語られる。

 律法学者たちは、イスラエルの社会で重要な役割を担っていた。彼らは、聖書を読み、書き写し、解釈をほどこしていた。それゆえに世間から重きを置かれ、人々は彼らに敬意を払っていた。

 しかし、その外見とは裏腹に、彼らの行動はしばしばその教えと一致していなかった。中には、彼らが得ていた名声と権力のために、他人を見下す者もいた。尊敬される立場と、掟を遵守する態度に隠れて、もったいぶり、特権を不法に横取りし、やもめに代表される、立場の弱い者たちを食い物にすることまでした(参照 同12,40)。これらの律法学者たちは、自らに与えられた役割を他者のために使わず、横暴や欺きのための手段に用いていた。

 これと同じことが祈りにおいても起きていた。彼らにとって祈りは、もはや主との出会いの時ではなく、品行方正さやうわべだけの信心深さを誇示し、人々の注目を集め、賛同を得るための機会に利用される恐れがあった。彼らは腐敗した人間として振る舞い、最も無防備な人々をはじめとする他者の陰で得をすることが当たり前の社会・宗教的な制度を助長していた。

 イエスは「律法学者に気をつけなさい」(参照 同12,38)と言い、彼らを避け、真似することがないようにと忠告している。実際、イエスの教えと模範は、権威者のそれとはかなり異なるものであった。イエスは自己献身と謙遜な奉仕について話し(参照 マルコ10,42-45)、人々に対する母性的・父性的優しさについて語り(参照 ルカ11,11-13)、特に困窮した人への思いやりを説いている(ルカ10,25-37)。力ある立場から、他の人々を見る役割を持つ者は、その力を他者を貶めるためではなく、彼らを立ち上がらせ、希望と助けを与えるために用いるように招いている。

 ここで自問しよう。わたしは、自分の責任がおよぶ場所でどのように振る舞っているだろうか。謙虚に振る舞っているだろうか。それとも、自分の地位をひけらかしているだろうか。わたしは人々に対し寛大で、敬意を持って接しているだろうか。それとも、非礼で権威的な態度でいるだろうか。そして、最も弱い立場にある兄弟姉妹に寄り添い、彼らを助け、立ち上がらせるために、自ら身を低くすることができるだろうか。

 わたしたちが自分自身の中にある偽善の誘惑と戦い、目立つことなく、単純さをもって善を行えるよう、聖母マリアが助けてくださいますように。

10 11月 2024, 14:20

お告げの祈り(アンジェルスの祈り)は、神の御子の受肉の永遠の神秘を思い起こす祈りです。この祈りは、朝の6時、正午、夕方18時頃の3回唱えられ、その時には、お告げの鐘が鳴らされます。アンジェルスの祈りと呼ばれるのは、ラテン語におけるこの祈りの冒頭の部分、– Angelus Domini nuntiavit Mariae – から採られています。この祈りは、イエス・キリストの受肉について語る3つの簡潔な本文と、3回のアヴェ・マリアの祈りからなります。お告げの祈りは、教皇によって、バチカンの聖ペトロ広場で、日曜日とカトリック典礼暦の祭日の正午に唱えられます。祈りの前に、教皇はその日の聖書朗読箇所などを観想する短い説教を行います、祈りの後には、巡礼者たちへの挨拶が続きます。
復活祭から聖霊降臨までは、お告げの祈りの代わりにアレルヤの祈りが唱えられます。これはイエス・キリストの復活を思い起こす祈りで、祈りの終わりには栄唱(グロリア)を3回唱えます。

最新のアンジェルス/レジナ・チェリ

すべて読む >