聖霊とキリスト教の祈りをテーマに、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、11月6日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
この謁見で教皇は、「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスとして、「わたしたちのために取り次ぐ聖霊、聖霊とキリスト教の祈り」をテーマに講話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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聖霊の聖化する働きは、御言葉や秘跡を通してだけでなく、祈りにおいても表される。今日はこのことについて考察したい。聖霊はキリスト教の祈りの中で、主体であると同時に、対象でもある。聖霊は祈りをもたらす方であると同時に、祈りによってもたらされる方である。わたしたちは聖霊を受けるために祈り、奴隷ではなく、神の子として真に祈るために聖霊を受ける。
まず、わたしたちは聖霊を受けるために祈らなければならない。まさにこのことについて、イエスは福音書の中で述べておられる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11,13)。新約聖書において、いつも祈る時に聖霊が降りて来るのを見ることができる。イエスがヨルダン川で洗礼を受けて「祈っておられると」(ルカ3,21)聖霊が降ってきた。また、「心を合わせ熱心に祈っていた」(使徒言行録1,14)弟子たちの上に、聖霊が降臨した。
祈りは、神の霊に対してわたしたちが持つ唯一の「力」である。カルメル山でバアルの偽預言者たちは自分たちのいけにえの上に天からの火を祈ったが何も起きなかった。エリヤが神に祈ると、主の火が降り、捧げ物をなめ尽くした(参照 列王記上18,20-38)。教会はこの模範に忠実に従う。教会は聖霊に向かって常に「来てください」と祈り求める。特にミサにおいて、露のように降り、パンとぶどう酒を聖化することを祈る。
しかし、聖霊と祈りの関係について、より重要で、励ましになる別の一面がある。聖霊は真の祈りをもたらす方である。「”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです」(ローマ8,26-27)。
わたしたちの祈りを表す言葉に、“mali, mala, male petimus”というものがある。 すなわち、悪い者であるために(mali)、間違ったことを (mala)、間違った方法で(male)願う。イエスは言われた。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6,33)。それに対し、わたしたちは神の国を求めるのを忘れて、自分たちの利益を何よりも求める。
聖霊はわたしたちの弱さを救いに来られる。しかし、さらに重要なことがある。聖霊は、わたしたちを神の子と呼び、「アッバ、父よ!」(ローマ8,15、ガラテヤ4,6)と叫ばせてくださる。わたしたちは神を通して、神に祈る。
まさに祈りの中で、聖霊はご自分を 「パラクレイトス」、すなわちわたしたちの弁護者、擁護者として現される。御父の前でわたしたちをとがめず、弁護してくださる(参照 ヨハネ16,8)。しかし、それはわたしたちが御父のいつくしみの喜びを味わうためであり、不毛な罪悪感でわたしたちを破滅させるためではない。わたしたちの心が何かのために自分を非難する時でさえ、聖霊は、「神はわたしたちの心よりも大きい」(参照 1ヨハネ3,20)ことを思い出させてくださる。
聖霊はわたしたちのために執り成してくださるが、同時にわたしたちが兄弟のために執り成すことも教えてくださる。この祈りが特に神に喜ばれるのは、それが最も無償で無欲のものだからである。一人ひとりが皆のために祈れば、皆が一人ひとりのために祈ることになり、祈りは倍増すると、聖アンブロジオは指摘している。
教会において、特にこの聖年の準備にあたり、非常に大切で必要な務めがある。それは、パラクレイトスと一致して、神のご計画に従い、聖人たちの取り次ぎを祈ることである。