「皆の益のために聖霊から与えられるカリスマ」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、11月20日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。
この謁見で、教皇は「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスを続けながら、「カリスマ、全体の益のための聖霊の賜物」をテーマに講話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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わたしたちはここ最近のカテケーシスで、秘跡や祈りの中で働く聖霊の聖化のわざや、神の母マリアの模範について話してきた。
では、ここで第2バチカン公会議のこの一節に耳を傾けよう。「聖霊は、秘跡と役職を通して神の民を聖化し、導き、諸徳をもって飾るだけでなく、自分の賜物を『思いのままに各人に分け与える』(参照1コリント12,11)」(教会憲章、12)。
こうして、わたしたちは、聖霊の教会におけるこの第二の働き、すなわちカリスマを分け与える働きについて考える段階に来た。
カリスマとは何かを定義するための、役立つ2つの要素がある。一つは、カリスマとは、「全体の益のために 」(1コリント12,7)与えられる賜物である。次に、カリスマとは、特に「一人に」あるいは「ある人々に」与えられるものであり、すべての人に同じように与えられるものではない。
これについても公会議は説明している。聖霊は「すべての序列の信者に特別な恩恵を授ける。『おのおのに、霊から賜物が与えられるのは全体の益のためである』(1コリント12,7)と書き記されているように、聖霊はこの恩恵によって、彼らを教会の刷新とその発展のために役立ついろいろの仕事と職務に適する者、またそれを引き受ける用意がある者とするのである」(教会憲章、12)。
カリスマは、キリストの花嫁を美しくするために聖霊が分け与える宝石、あるいは装飾である。よって、公会議の公文書が次のように勧告していることが理解できるだろう。「それらの霊の賜物は、特に顕著なものも、またもっと単純で広く与えられているものも、すべてまず教会の必要に適応したもの、有益なものであるから、感謝と喜びをもって受けなければならない」(同上、12)。
ベネディクト16世は、2012年の聖木曜日の聖香油のミサでこのように述べている。「公会議後の歴史を見る人は、真の刷新のダイナミズムを認めることができるだろう。それはしばしば生き生きとした運動の中に思いがけない形で表され、聖なる教会の限りない活力に触れることができるかのようであった」。
さらに、カリスマを見出すことは、特に女性をはじめ、信徒の活躍の場を広げることになった。それは単に組織的、社会的な観点からではなく、聖書的、霊的な面においてでもあった。実際、信徒は一種の外部協力者でも聖職者の補助的な集団でもない。信徒たちはそれぞれのカリスマと賜物を持ち、それによって教会の宣教に貢献する存在である。
カリスマについて話す時、すぐにある種の誤解を解消しなくてはならない。それは、カリスマを、目を見張るような、たぐいまれな素質や才能と同一視する誤解である。それに対し、これらは、聖霊から霊感を受け、愛と共に人生の様々な状況において具体化されることで素晴らしい価値を得る、普通の賜物である。
カリスマに対するこうした解釈は重要である。なぜなら多くのキリスト者は、カリスマについて聞くたびに、自分にはそれが無く、疎外された、セリアBの信者のように思い込み、悲しみや失望を味わうからである。
この問題について、聖アウグスティヌスは非常に雄弁なたとえで答えている。「あなたが自分に備わっているものを大切にするならば、それは決して小さなことではない。事実、あなたが一致を愛するならば、その一致の中にあるすべてのものは誰かのものであり、あなたのものでもあるからである。体の中で、目だけがものを見る能力を持っている。しかし、目が見ているものは、目自身のためだけだろうか。そうではない。目は手のために、足のために、そしてすべての肢体のために見ているのである」。
愛が使徒パウロから「最高の道」(1コリント12,31)と定義されるための秘密がここに明かされる。なぜなら愛は、教会や、自分が生活する共同体を愛させるからである。一致したカリスマのうち「自分のもの」はわずかである。それはわずかなものに思われても、それはすべての人のものであり、すべての人の益となるものである。愛はカリスマを増やし、一人のカリスマを、皆のカリスマとするのである。