教皇「心に聖なる炎を保ち、絶えず祈る」一般謁見
教皇フランシスコは、6月9日、水曜日恒例の一般謁見をバチカンの聖ダマソの中庭で行われた。
この日のカテケーシスで、教皇は「キリスト教的祈り」をめぐり、「愛のうちにたゆまず祈る」をテーマに講話された。
「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(1テサロニケ5,17-18)という聖パウロの言葉に感銘を受けたある人が、どうしたら絶えず祈り続けられるのかと自問し、こうして始まった霊的探究が、「イエス、キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしたちをあわれんでください」という、一日の生活に呼吸のように広がる心の祈りを彼に見出させた、と、教皇はあるロシア人巡礼者の手記を思い起こし語られた。
教皇は、たゆまず祈るということについて、「わたしたちは、いつも働き、徹夜し、断食するようにと命じられているわけではありません。しかし、絶えず祈るようにというおきてがわたしたちに与えられています」という、4世紀の修道者エヴァグリウス・ポンティクスの言葉を引用。
キリスト者の生活には、古代の神殿で守られていたような聖なる炎が、心の祈りとなって常に保たれているべきであり、何ものもそれを消すことはできない、と話された。
また、教皇は、「広場にいても、ひとりで散歩していても、神に心を向けなければなりません。商売のために忙しく立ち働いていても、料理をしていても、心の底から熱心な祈りをささげなければなりません」という、聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を紹介。
祈りは一種の楽譜のように、わたしたちの生活の旋律をその上にしるすもの、と述べた教皇は、祈りは日常生活の忙しさと対立せず、むしろ一つひとつの行いに意味と平和を与える、と語られた。
キリスト教の修道生活は、常に労働を尊重したが、労働は、自分と他者を養うという道徳的義務のためだけでなく、同時に内的な均衡を保つためのものであり、わたしたちが抽象的な関心だけを養う危険に陥らないように、現実との触れ合いを助けてくれるもの、と教皇は話した。
そして、教皇は、イエスがマルタに「必要なことはただ一つ」、すなわち神に耳を傾けることであると言われたのは(参照 ルカ10,38-42)、決してマルタが熱心に行っていた多くの奉仕をさげすむためではなかった、と説明された。
教皇は、わたしたちの体は、二本の腕、二つの目、二つの手、という具合に、つり合うようにできているが、労働と祈りもまた互いに補い合っている、と話した。
祈りは、すべてのための呼吸のように、労働を根底から支えるものであり、仕事に完全に囚われて祈りの時間を見出せないことは非人間的である、と語られた。
一方で、生活を排除する祈りは健全ではなく、わたしたちを生活から遠ざける祈りはスピリチュアリズムになる、と教皇は述べた。
教皇は、イエスがタボル山上で変容されご自身の栄光を弟子たちに表された後、恍惚の時を長引かせることなく、彼らと山を下りて、日常の歩みに戻られたのは、この体験が光と信仰の力となって弟子たちの心に留まることを望まれたからであった、と話された。
そして、教皇は、このように信仰と生活と祈りの相互の関係において、キリスト教的な愛の炎を保つことを、神はわたしたちに望まれている、と説かれた。