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教皇フランシスコ 2024年11月27日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2024年11月27日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「聖霊の実である喜び」をテーマに、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、11月27日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、11月27日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見を行われた。

 この日、教皇は謁見中の「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、「聖霊の実である喜び」について話された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 聖霊の聖化とカリスマの恵みについて話した後、今日は聖霊の働きがもたらすもの、「聖霊の実」について考えたい。使徒聖パウロは霊がもたらす様々な実を、ガラテヤの信徒への手紙の中で次のように挙げている。「霊が結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5,22)。

 カリスマとは異なり、聖霊はその実を教会の益のために、誰にでも、いつでも与える。霊の実は、恵みと自由による協力の結果である。これらの実は、「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5,6)を通し、常に人の創造性を、時に驚くべき、喜びにあふれた方法で表す。教会の中で皆が必ずしも使徒的、預言的、福音的ではないかもしれない。しかし、皆が区別なく、慈愛に満ち、忍耐強く、謙遜で、平和のために働く人でいることはでき、またそのようにあるべきである。

 使徒パウロが挙げた霊の実の中で、特にそのうちの一つ、喜びに注目したい。使徒的勧告『福音の喜び』の冒頭にはこうある。「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします。イエスの救いを受け入れる者は、罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放されるのです。喜びは、つねにイエス・キリストとともに生み出され、新たにされます」(n.1)。

 聖霊の実である喜びは、他のすべての人間的な喜びと同様に、ある種の充足感、充実感を伴い、それがいつまでも続くことを願わせる。しかし、わたしたちの経験からもわかるように、そのとおりにはいかない。なぜなら、若さ、健康、体力、友情、愛のように、この世のすべてのものはすぐに過ぎ去るからである。たとえ、これらがすぐに過ぎ去らないとしても、ある時点から、それが十分でないと感じたり、それどころか、退屈を与えたりさえする。なぜなら、それは「主よ、あなたはわたしたちをあなたのために造られました。ですから、わたしたちの心はあなたの中に憩うまでは、安らぐことはないのです」と、聖アウグスティヌスが神に向かって言ったとおりだからである。

 福音の喜びは、他の喜びと違い、毎日新たにされ、他者にも伝わっていくものとなる。「わたしたちを閉鎖性や自己中心性から救い出すのは、神の愛との出会い、あるいは再会のみです。この出会いは幸せをもたらす友情になります。 [...] そこにこそ福音宣教の泉があります。なぜなら、人生の意味を取り戻すその愛を受け入れた人は、他の人に伝えずにはいられないからです」(『福音の喜び』n.8)。聖霊の実である喜びの特徴は2つある。それは、時間による消耗は避けられないが、他人と分かち合いながら、増やすことができるという点である。

 5世紀前、ローマにフィリポ・ネリという聖人がいた。彼は喜びの聖人という名を残した人である。聖フィリポは、彼のオラトリオの貧しいく見捨てられた子どもたちに、「息子たちよ、明るくおやりなさい。遠慮や陰気さはいりません。ただ罪は犯してはいけません」「できることなら、善良でいてください」と言っていた。聖フィリポが神に対して持っていた愛は、あまりの大きさに胸が破裂しそうなほどであった。彼の持つ喜びは、文字どおり、霊の実であった。聖フィリポは1575年の聖年を経験したが、その聖年を7つの教会の巡礼などの実践を通して豊かなものとした。彼はその時代、喜びを介した真の福音宣教者であった。

 「福音」という言葉は、喜ばしき知らせを意味する。それゆえに、もったいをつけたり、暗い顔でそれを告げず、隠された宝や貴重な真珠を見つけた人の喜びをもって告げなければならない。聖パウロがフィリピの教会の信徒に向けた勧めを思い出そう。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(フィリピ4,4-5)。

27 11月 2024, 15:56

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