十字架上でわたしたちのために祈るイエス、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、6月16日、バチカンの聖ダマソの中庭で、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「イエスの司祭的な祈り」をテーマに講話され、これによって、昨年5月より38回にわたり続いた「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスのシリーズを終えられた。
この日のカテケーシスで、教皇は、祈りはイエスの生涯における大きな特徴の一つであった、と述べ、イエスがその宣教活動の中で祈りに潜心したのは、御父との対話こそ、ご自身の全存在の熱い核心だったからである、と話された。
福音書の記述から、イエスの祈りが受難と死に向かってますます深まっていく様子がわかるが、イエスがエルサレムで過ごした最後の時間が福音の中心をなすのは、単に福音記者たちがそこに多くのスペースを割いたからではなく、イエスの死と復活の出来事がイエスの生涯の残りのすべてに光を投げかけるからである、と教皇は語った。
教皇は、イエスは人々の苦しみや病の世話を引き受ける博愛家だったのではない、と述べ、イエスの中にあったのは善良さだけではない、それ以上のもの、すなわち「救い」であり、それは個々のエピソードの救いを超えた、いのちの死に対する最終的な勝利への希望を生む、「救世主がもたらす完全な救い」であった、と話した。
イエスはゲツセマネで死の苦しみにもだえて祈るが、ご自分のまわりに深い闇が下りてくる、まさにこの苦しみの時、イエスは「アッバ、父よ」という小さな言葉を通し、御父を愛を込めて呼んでいることに、教皇は注目された。
イエスは十字架上でも、神の沈黙に包まれながら祈っている。ここでもイエスの口から「父よ」と、御父に向けて祈りが上がっていく。十字架上のイエスの祈りは、最も大胆なもの、と教皇は述べ、それは他者のため、自分を罪に定めた者たちも含めた、すべての人のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23,34)と祈られたからである、と説かれた。
十字架上での魂と体に対する耐え難い苦しみのただ中で、イエスは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22,2)と、詩編の言葉をもって、この世の貧しい人々、特に誰からも見捨てられた人々と共に祈り、その十字架の上で御父の愛の賜物、すなわちわたしたちの救いを完成された。こうして、イエスは受難と死の時に祈り、御父はイエスの復活をもってその祈りを聞き入れられた、と教皇は話された。
教皇は、イエスはすべての人のため、わたしたち一人ひとりのために祈られた、と強調。わたしたちは皆「イエスは十字架上でわたしのために祈られたのだ」と言うことができ、これに対し、イエスはわたしたちに「わたしは、最後の晩餐で、十字架の上で、あなたのために祈ったのだ」と言うことができるだろう、と語った。
そして、最もつらい苦しみの中にある時も、わたしたちは決して独りではない、と教皇は話された。
教皇は、「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスを終えるにあたり、「わたしたちは祈るだけでなく、祈られている」という恵みを忘れてはならない、と説かれた。
「わたしたちは、御父とイエスが聖霊の交わりのうちにかわす対話の中にすでに迎え入れられている」、「わたしたちは、イエス・キリストにおいて望まれた存在であり、イエスの受難と死と復活も、すべてはわたしたちのために捧げられたものであった」と述べた教皇は、「イエスの祈りを強く感じながら、希望と勇気をもって前進しよう」と、信者らを励まされた。