「イエスの養父、聖ヨセフ」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、1月5日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
新年に入り初めてのこの謁見で、教皇は聖ヨセフをめぐるカテケーシスを進めながら、「イエスの養父、聖ヨセフ」をテーマに話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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今日は、イエスの父親としての聖ヨセフを観想しよう。福音記者マタイとルカは、ヨセフをイエスの生物学的な父親ではなく、養父として示している。マタイは正確を期して、系図の中でヨセフを「マリアの夫」と定義し、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1,16)と記す。一方、ルカは系図の冒頭で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3,23)と記している。
イエスの公の父親として、ヨセフは子を名付ける権利を持っていた。名付けることはその子を法的に認めることでもあった。
古来、名前はその人のアイデンティティーを要約するものであった。名前を変えるとは、自分自身を変えることを意味していた。また、名を与えるとは、名付けられたものに及ぶ自分の権威を示すことであった。
ヨセフは、マリアの子のために神が用意した名前をすでに知っていた。「イエス」という名前、それは「神は救う」という意味を持つ。実際、天使はヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,21)と言った。
イエスの養父としてのヨセフの姿は、父性や母性とは何かを考えさせてくれる。
父であるため、母であるためには、自分の子を世に送り出すだけでは足りない。「父親とは生まれるのでなく、なるものである。ただ自分の子が誕生したからと言って、父になるのではない。責任を持ってその子を世話してこそ父親になれる。いつでも誰かが他者の人生に責任を負う時は、ある意味で、その人に対し父性をもって接すると言える」(使徒的書簡「パトリス・コルデ」)。
特に、自らを開き、養子縁組という道をとおしていのちを受け入れるすべての人たちのことを思う。ヨセフは、このような形の絆が決して二次的なもの、妥協的なものではないことを教えてくれる。こうした選択は、最も気高い愛や父性・母性の形の一つである。
いったい世界でどれだけの子どもたちが、誰かが自分の世話をしてくれることを待っているだろうか。そして、いったいどれだけの夫婦たちが、父親や母親になりたくても、生物学的理由でそれができないでいることだろうか。あるいは、どれだけの夫婦が、すでに子はいても、家族の愛を経験できない子たちとその愛を分かち合いたく思っていることだろうか。養子縁組の道を選び、受け入れの「リスク」を負うことを恐れてはならない。
誰一人、父の愛の絆の欠如を感じることがないように。聖ヨセフが孤児たちを守り、助けてくれますように。そして、子を持つことを望む夫婦のために取り次いでくれますように。
聖ヨセフよ、
あなたはイエスを父の愛で愛しました。
お父さん、お母さんを求める、
身寄りのない多くの子どもたちのそばにいてください。
子を持ちたくても持てない夫婦たちを支えてください。
これらの夫婦たちがこの苦しみをとおして、
より大きな計画を見出せるよう助けてください。
誰もが家と絆と気にかけてくれる人を持つことができますように。
いのちに自分を閉ざす人たちが、愛に心を開けるよう、
彼らをエゴイズムからいやしてください。
アーメン。