福音書の「マルタとマリア」のエピソード観想、教皇、日曜正午の祈り
教皇フランシスコは、7月17日(日)、バチカンで「お告げの祈り」を聖ペトロ広場の巡礼者と共に唱えられた。
祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、ルカ福音書中の「マルタとマリア」のエピソード(ルカ10,38-42)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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この日曜日の福音は、マルタとマリア姉妹の家庭内の情景を生き生きと描いている。イエスを迎えたマルタは、客をもてなすためにすぐに忙しく働き始めた。一方で、マリアは主の足もとに座り、その言葉に聞き入っていた。そこで、マルタは師イエスに向かい、マリアに手伝うように言ってほしい、と頼んだ。マルタの小言は一見もっともなことのように思われる。ところが、イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。 マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10,41-42)と答えられた。イエスの答えは驚くべきものである。なぜ主はマルタの寛大な心遣いに感謝しながらも、マリアの態度こそ取るべきものと明言されたのだろうか。
マルタの「哲学」は、「義務こそ第一、楽しみは後」というもののように思われる。もてなすためには、言葉だけでなく、客が居心地良く感じられるように立ち働かなくてはならない。実際、イエスはマルタの働きをよくご存じである。しかし、イエスはマルタに従来とは異なる新しい優先順位を理解させようとした。これに対し、マリアは何よりも優先すべきことを直感した。「マリアは良い方を選んだ」、それはイエスの言葉に耳を傾けることであった。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(同10,39)と福音書は言う。何かをしながら立ったままで聞いていたのではない。マリアがイエスの足元に座っていたことに注目しよう。マリアは、イエスが他の客たちのように食事や宿を求めて来たのではなく、その言葉を通してご自分を与えるために来られたことを理解したのである。
イエスの言葉は抽象的ではない。それは心に触れ、人生を形作り、変容させ、悪から解放し、消えることのない喜びを与える。イエスの言葉は選ぶべき「良い方」なのである。それゆえにマリアは留まり、耳を傾けた。他のことは後で良いのである。もっとも、これは実践的な努力の価値を減ずるものではない。しかし、それは先立つものではなく、イエスの言葉への傾聴、聖霊の働きかけから湧き上がってくるものでなくてはならない。さもなければ、様々なことに心を乱すばかりの不毛な行動主義に陥ってしまうだろう。
この休暇の時期を、立ち止まりイエスに耳を傾ける機会としよう。今日、観想のための自由時間を見つけることがますます難しくなっている。夏の期間を、福音書を開き、急がずに毎日少しずつそれを味わう貴重な時としよう。マルタとマリアのエピソードから、自分たちの生活を振り返ってみよう。1日の始まりからすでになすべきあれこれに没頭しているのだろうか、それともまず神のみ言葉から最初のインスピレーションを得ようとしているだろうか。朝、イエスの言葉を頭に留めながら出かけるならば、一日はその言葉によって意味を帯び、その言葉は主が望まれるようにわたしたちの行動を導くだろう。
おとめマリアがわたしたちに、決して取り上げられることのない「良い方を選ぶ」ことを教えてくださいますように。