「神にとっての栄光とは」教皇、日曜正午の集いで
教皇フランシスコは、3月17日(日)、バチカンを訪れた巡礼者らとお告げの祈りを唱えられた。
四旬節第五主日、教皇は集いの説教で、同日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書12章の、イエスが「一粒の麦」のたとえを話す場面(ヨハネ 12,20-33)の中から、特に「人の子が栄光を受ける時が来た」(同12,23)というイエスの言葉を観想された。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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聖週間が近づきつつある四旬節第五主日、今日の福音(ヨハネ 12,20-33)で、イエスは大切なことを言われる。それは、わたしたちが十字架の上にイエスと御父の栄光を見るであろうということである(参照 同12,23、12,28)。
しかし、どうしてよりによって十字架の上に神の栄光を見ることができるのだろうか。神の栄光が復活の時に現されるとは考えられても、敗北と失敗の象徴である十字架の上にそれを見ることはできないように思われる。それにもかかわらず、イエスはご自身の受難について話しながら言われる。「人の子が栄光を受ける時が来た」(同12,23)。これはどういうことだろうか。
それは、神にとっての栄光とは、人間の成功や名声、人気とは一致しないからである。それは、自己顕示や、人々の拍手を浴びる偉大なる権力の誇示ではない。神にとっての栄光とは、命を差し出すまでに愛することである。神にとって、栄光を受けるとは、自らを差し出すこと、近寄りやすい者となること、愛を与えることである。これが究極の形で表されたのは、まさにあの十字架の上であった。そこでイエスは神の愛をほとばしらせ、いつくしみの御顔をあまねく啓示し、ご自身を十字架につけた者たちを赦しながら、自らの命を差し出されたのである。
「神の学び舎」である十字架の上から、主はわたしたちに真の栄光を教えられる。それは決して廃れることのない、人を幸福にする、与えることと赦すことからなる真の栄光である。献身と赦し、それは神の栄光の本質であり、わたしたちにとっては、命のいのちである。 献身と赦し、神の栄光の基準は、わたしたちが周りで見るもの、自分たちの心の中にあるものとは、かなり異なる。われわれは栄光とは与えるより受けるもの、差し出すよりも占有するものだと思っている。しかし、この世の栄光は過ぎ去り、心に喜びを残さない。すべての人に善をもたらすこともなく、むしろ分裂、不和、妬みをもたらす。
ここで自問しよう。わたしは自分と、自身の人生、未来に、どのような栄光を望んでいるだろうか。自分の優秀さや能力や持っている物で人に感銘を与えることだろうか。それとも、十字架上のイエスと同じ、与え、赦す道、愛し抜き、神を世に証しし、命の美しさを輝かせることに信頼する道だろうか。事実、わたしたちが与え、赦す時、神の栄光が輝くことを忘れてはならない。
イエスの御受難の時まで御子に信仰をもって従ったおとめマリアよ、わたしたちがイエスの愛の生きた反映となれるよう助けてください。