「徳」をめぐる考察に入る、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、3月13日(水)、教皇に選出されてから11年を記念した。
この選出記念日、教皇はバチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
謁見中の「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、教皇はこの回より、「悪徳」と対称関係にある「徳」についての考察に入られた。
教皇は最初に巡礼者らに歓迎の挨拶を述べた後、まだ少し風邪の症状が残っているために、カテケーシスを国務省のピエルルイジ・ジロリ師の代読に託したいと話された。そして、これはためになる内容なので、注意深く聞いてください、と願われた。
この日のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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様々な「悪徳」を考察した後で、その対称関係にあるもの、悪の体験の対極にあるものにこれから目を向けよう。
人間の心は、危険な情熱の言いなりになったり、害になる誘惑に耳を貸す可能性がある一方で、これらすべてに対抗することもできる。たとえそれが困難を伴うとしても、人間は善のために造られており、善を真に実現し、それを鍛え、自分の中で持続するものにすることができる。人間が持つこの素晴らしい可能性をめぐる考察、それが「徳」という、倫理哲学の一つの古典的な主題を形作っている。
古代ローマの哲学者は「徳」をvirtus(ヴィルトゥス)、古代ギリシャ人はそれをaretè(アレテー)と呼んでいた。ラテン語におけるその定義は、特に、「徳」を持った人の強さ、勇気、節制、苦行を強調している。つまるところ、「徳」の行使は、努力や苦しみを要する長い発芽を経た結果なのである。それに対し、ギリシャ語のaretèは、優れた、際立つ、感嘆させる何かを指している。有徳の人とは、自分を曲げて無理に変えた人ではなく、自らの召命に忠実に、自分自身をあまねく実現した人のことである。
聖人たちは人間の中で稀な存在であり、われわれの限界を超えて生きる、一握りの勝者たちの集まりだと考えるのは誤りである。むしろ、聖人たちは「徳」という視点から見て、それぞれの召命を実現しながら、自分自身を精一杯に生きた人たちである。正義や、尊重、相互の優しさ、寛大さ、希望といったものを普通に分かち合えるならばどれほどよいだろうか。だが、それはめったにないことである。しばしば人間の最悪さと向き合わねばならない悲劇的な今日の時代ゆえに、徳ある態度の考察は再発見され、皆が学ぶべきものと言えるのである。この歪んだ世界において、わたしたちは神の似姿に沿って作られ、永遠に刻まれた自分たちのあるべき形を記憶しなければならない。
ところで、「徳」という概念をどのように定義したらよいだろうか。『カトリック教会のカテキズム』は、正確で簡潔な定義をわたしたちに示している。「徳とは善を行う堅固な習性です」(n.1803)。それは人間のゆっくりとした成熟から生まれ、その人の内的特質にまでに至る善である。「徳」とは自由の一つの「態度」である。わたしたちがあらゆる行いにおいて自由であるとすれば、善悪を選択する必要があるたびに、「徳」は正しい方を選ぶ習慣をわたしたちにもたらす。
「徳」がこれほど素晴らしい素質であるならば、すぐに次の問いが生まれるだろう。「いかにしてその徳を得ることができるのだろうか?」その答えは簡単ではなく、複雑なものである。キリスト者にとって、一番の助けは神の「恵み」である。事実、洗礼を受けた者の中では聖霊が働く。聖霊はわたしたちの魂の中で働き、それを有徳な生活へと導く。いったいどれほど多くのキリスト者たちが、己の弱さを克服できぬことを認めつつ、涙を経て、聖性に到達したことか。彼らは、自分にとって単なる素描に過ぎなかった善という作品を、神が完成してくださったのを知ったのである。神の恵みは、わたしたちの道徳的な努力に常に先行する。
さらに、先人の知恵からもたらされた、「徳は成長する。そして、それは鍛えることができる」という非常に豊かな教えを決して忘れてはならない。そのためにも、聖霊に最初に願うべき賜物は、まさに知恵である。わたしたちが持つかけがえのない賜物は、開かれた精神と、人生を善に向かって方向付けるために、過ちから学ぶ賢明さである。そして、必要なのは、熱意と、善を選択し、過度なことを遠ざけ、節制を通して自分自身を形作る能力である。
では、こうしてわたしたちの「徳」をめぐる旅を始めよう。