主の昇天:教皇「イエスと共に喜びをもって天に向けて歩もう」
教皇フランシスコは、5月12日(日)、正午の祈りの集いを行われた。
多くの国の教会が「主の昇天」の祭日を祝ったこの日、教皇は祈りに先立ち、復活したイエスが弟子たちに話された後、天に上げられた場面(マルコ福音書16,15-20)を取り上げ、説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日は、イタリアや他の国々で、「主の昇天」の祭日を祝う。ミサ中の福音は、イエスはご自身の業を続ける使命を使徒たちに託した後、「天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16,19)と語っている。
イエスが天の御父のもとに帰られたことは、イエスがわたしたちから引き離されたのではなく、むしろ、わたしたちに先立って目的地に行かれたかのように思われる。それは登山で頂上を目指す時、苦労して歩みながら、とうとうその道のりの向こうに地平と共に眺めが開けるのに似ている。すると、体全体が力を取り戻し、最後の登り坂に挑むことができる。体全体、すなわち、肢体とすべての筋肉が、頂上に到着するために伸ばされ、それに集中するのである。
わたしたち、教会は、まさにイエスの体である。イエスは、あたかもわたしたちをロープでつなぎ、引っ張るかのように、天に昇られる。わたしたちが目指して歩む天の祖国の美しさについて、御言葉と秘跡の恵みを通して啓示を与え、告げられるのはイエスである。わたしたちもまたイエスの体の肢体として、頭であるイエスと共に、喜びをもって上っていく。そこでは一人の歩みは皆の歩みである。誰も迷ったり、置いていかれることはない。なぜならば、わたしたちは一つの体だからである(参照 コロサイ1,18 、1コリント12,12-27)。
一歩ずつ、一段ずつ、イエスはわたしたちに道を示してくださる。これらのたどるべき道のりとは何だろうか。今日の福音は、それを「福音を宣べ伝え、洗礼を与え、悪霊を追い出し、蛇と対峙し、病人をいやすこと」だと教えている(参照マルコ福音書16,15-18)。それはつまり、愛の業を行うことである。いのちを与え、希望をもたらし、意地悪や卑しい考えから遠ざけ、悪に善をもって答え、苦しむ人に寄り添うことである。
わたしたちがそのようにすればするほど、イエスの霊によって変容され、イエスの模範に従えば従うほど、山にいるように、空気に包まれ、軽くすがすがしく感じる。広い地平線をながめ、目的地が近づいたことに気づき、言葉と行いは善良になり、精神と心は広がり、呼吸を始める。
ここで自問しよう。神と、神の無限の愛と永遠のいのちに対する熱望がわたしの心に息づいているだろうか。それとも、お金や成功や享楽など、過ぎ去る物事に、押しつぶされたり、しがみついたりしているだろうか。また、わたしの天の御国への思いが、わたしを孤立させ、閉じこもらせているだろうか。それとも兄弟たちを愛するようにさせ、彼らを天国に向かう旅の仲間であるとわたしに感じさせているだろうか。
わたしたちが天の栄光に向かって喜びをもって共に歩めるよう、すでに目的地におられる聖母が助けてくださいますように。